主体化させるコロナウイルス―生きづらさについて考える

 日本人は会議が好きである。会議と言っても議論ではなく、だらだらと報告をしあい、ひとっつも聞いていないのに聞いたフリをし、目を開けながら寝ているような会議である。何かテーマを決めて、その解を出そうとすることもあるが、一向に何も決まらない。そもそも、何も決めたくないのだろう。大事なことは先送りして、時間が経つと気づけば問題はうやむやになっているし、自分に面倒なタスクが降りかかってくることはない。誰かに仕事を課すことに対して顔色を伺う必要もなくなる。

 

 内田は「何も決めないでいるうちに想定外のことが起きて、『もうこれしかない』という解に全会一致で雪崩れ込む」ことを【角の立たない合意形成】と言っている。ジャパニーズは事を決めたくないというよりも、角が立って自分の身の回りでいざこざが起きるのを嫌うのだろう。これを鎖国と黒船来航に例えているのは腑に落ちた。だから、社内からの意見など聞く耳を持たず、コンサルという名の黒船にわざわざ金を払い、強制的な意思決定を望むのだ。

 

 そもそも、慢性的な人材不足の日本社会で、昭和初期からの終身雇用制度は崩壊の局面を迎えているが、20~30代の若手社員が何の意思決定もしないおじ・おば社員の姿を見て何を思うだろうか。答えは「これでいいんだ」である。だらだらと時間を消費し、みんなで話し合った気になり、自分のタスクだけをこなしていれば、まあ食いっぱぐれることはないだろう。飲み会は適当にこなして、上司の愚痴を聞いていれば給料はもらえるし、休みもある。この繰り返しで私たちは育てられたのだと実感する。

 

 ただ、今日のコロナ禍で「これでいいんだ」が「これじゃだめだ」にシフトしているのは間違いない。出社しなくても仕事はできるし、煩わしい飲み会もない。一発芸をすることもない。必ずしも都会に住む必要はなく、同世代は自然の中で悠々とTシャツ短パン姿で働いている。会社の業績は悪化して、さらに「事を決めたがらないジャパニーズ」の姿が目につく。事の主体が自分になったとき、人はビルを飛び出し、電車には乗らず、生き生きと暮らす自分を想像することができるのだろう。

 

 決して生きづらくない世の中に踏み込んでいくことはできる。未知数ではあるがスーツを着る必要がないのは嬉しい。医療関係者や感染者には非常に非常に失礼だが、コロナウイルスは日本人への黒船なのかもしれないと思う。

 

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