忘れることだって正義なんじゃないか

 ここ最近、「教訓を伝え続ける」や「震災を忘れない」ということがあまりにも美化され、絶対的な正義として存在している。世の中的にも、将来世代的にも、そりゃ正しいよとは思う。だからこそ、忘れたかったら忘れてもいいんじゃないですか?と言いたい。

 

 津波に飲まれた故郷を思い出すこと、亡き人やペットを思うこと、この10年を振り返ること。ちょっと苦しいし、外圧的に思い出せ!語れ!と言われているようで重たい。何よりも、大きな被害を受けても前に進むことが良しとされ、先陣を切って活動している人たちを見ると、自分の「何もしていない感」が浮き彫りになるようで悲しくなってくる。

 

 何とも言えない滞留や同じ位置に漂い続けることは悪いのだろうか? 0でも100でもない、30ぐらいの感情が自分の中に残り続けていることは、ダメなのだろうか?

 

 前に進むとか、寄り添うとか、復興を遂げるとか、簡単に言葉を発しすぎだと思う。その言葉が誰かの足枷になり、心を苦しめることになるのだと想像できるだろうか。被災地で生まれようが生まれまいが、必ずしも全員が被災地で活躍したいと願うわけではない。多様性や一人ひとりという言葉を使う割には、取り沙汰されない人々を気遣う言葉は何一つない。別に10年たっても何も感じない人もいるし、その感じないことが悪いことではないのだ。

 

 コロナ感染者への差別にも似ている。大多数は感染したくてしたわけではない。誰にでも感染するリスクはあるにも関わらず、感染したという結果だけを見て、特定の人物を攻撃する。感染するかどうかなんて誰にもわからないし、対策はとっても感染するときは感染する。被災も同じだ。被災したくてしたわけでもないし、その後の人生を復興のみに捧げる運命と、誰かに決められたわけじゃない。

 

 あまりにも被災地出身の者が被災地で言葉を発し、働き続けることが美化され過ぎではないか。その友人知人は、どんな思いを抱いているだろうか。はっきり言えば、忘れたければ忘れてもいいのである。その人の人生はその人自身のものだ。良好なメンタルを保つためにも、キラキラと活躍する人と対比することはない。誰が偉くて偉くないとか、そんな次元の話じゃないからだ。